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朝、家を出るとそこは別世界のようだった。一晩中、駐車してあった車の上や、冬でも葉を落とさなかった樹木の上。そこで生活する人やものを守ってくれている、様々な色や形をした屋根の上などに降り積もった雪。 薄曇りの空なのに、まるでそれらが自ら発光しているように、冬の弱い朝の光を反射して視界が白く明るい。 今日の日中の天気予報は晴れ。今の気温もそれほど寒くは感じない。お昼頃にはほとんど溶けてしまいそうだ。それでも…… 「ホワイト・バレンタインか」 誰にも聞こえないように、口の中で小さく呟いた。少しだけ気分が浮上する。いつまでも見ていたい気持ちを抑え、腕時計を見て慌てて駅への道を早足で歩き出す。 アスファルトの上の雪はタイヤや人に踏まれてほとんど溶けていた。多少は歩きにくいけれど、凍ってなくてよかったと思いながら歩くスピードをあげようとして、片手に下げた二つの紙袋が足にあたって邪魔をする。バランスがとりづらい。思わずため息が漏れ、上昇しかかった気分がまた下降する。 足の裏にコツコツと体重がかかるたび、振動が寝不足の頭にまで響いてズキズキ痛んだが、塀の上から道行く人々を見詰めている小さな雪だるまを見つけた時には少しの間だけ忘れていられた。 駅ではいつもよりテンションの高い人の波に押されてうんざりしながら、雪のために遅れた電車にぎゅうぎゅう詰めの状態で乗り込み、会社に着く頃にはへとへとになって、ようやくたどり着いた自分の席に座り込んだ。 「疲れた~」 コートを脱ぐ気力もなく机の前でぐずぐずしていると、横から急に誰かに顔を覗き込まれた。 「朝からお疲れだね」 見なくても、声を聞かなくても、それが誰かは想像がつく。今まで仕事第一で頑張ってきたおかげなのか弊害なのか、会社関係の大抵の人には良く言えば『しっかり者』、悪く言えば『冗談の通じないやつ』と思われている私を、わざわざ朝からからかいにくるのは同僚の佐和子か寺田しかいない。 佐和子は計ったように始業5分前にしかこないので、残る可能性があるのは寺田だけだ。わざと視界に入らないように避けていた姿を捉え、私は満面の不満顔になる。 「お。片倉、チョコレートの甘い匂いがする」 鼻をわざとらしくひくつかせ、顔を寄せてこようとする寺田を寸前で押し退ける。 「ちょっと、なにするのよ。朝から反射神経のいる冗談はやめてよね」 寺田はすねたような表情を浮かべ、両腕を軽く上げて半歩下がった。 「んー、半分は冗談でも、半分は冗談じゃないんだけどなぁ」 「なに訳のわからないことをいってるのよ」 私は内心、ドキリとしながらも大きい方の紙袋を手元に引き寄せて中を覗き込んだ。目的の袋は一番上に乗せていたのですぐに見つかる。 「まあ、もしそれが本当なら寺田の嗅覚は犬なみね」 紙袋から引っ張り出したのは、濃いグリーンに金のロゴの入ったシンプルな手提げ。 「はい。言っておくけどギリだからね」 ギリのところに強くアクセントを置いて発音する。気のせいかもしれない……否、気のせいだと思いたいのだけど、背中越しに感じる女性陣の視線がさりげなく痛い。 お調子者で自信家の寺田は、顔はまあ悪くないにしても、私には未だに信じられない事なのだけど、社内での評価は結構高かったりするのだから不思議だ。 「まあまあ、照れなくったっていいから。素直になりなって」 愛の抱擁とばかりに腕を伸ばしてくる寺田に、今度は余裕をもっていつものように対処する……つまり、紙袋とは反対側に置いた通勤鞄を掴んで素早くガードし、反撃に転じたのだ。 「わ、馬鹿。痛いだろうが」 振り下ろした鞄を空いた方の手で受け止めて流し、ひょいと横に飛びのく。 「暴力反対」 降参とばかりに両腕を軽く上げ、そのまま自分の席へ退散する。去り際に身体を脅えたように屈ませ、 「片倉、サンキューな」周りに聞こえないように、小さな声で言いながら。 ☆ 「おい片倉、丸山物流の見積もりはまだなのか!」 斜め向かいから課長の声が飛び、一時間前に言われていた事を思い出す。 「すみません、まだです」 「急いでるっていっただろうが」 雷が落ちそうな雰囲気を察し、慌てて受話器に手を伸ばす。 「はい、すみません。すぐにもう一度確認します」 言い終わると同時に電話番号を押す。 「会議の十分前までにはファックスかメールでもらっとけよ」 「はい!」 課長に負けないくらいの大声で返事をし、受話器を耳に押し当てる。呼び出しの音が二回と半分ぐらい鳴ったところで相手の社名を告げる声がした。 その後も二度ほど細かい確認と御礼の電話をいれ、課長に経過報告をし、PDFデータをプリントアウトして提出したのは会議のきっかり十分前だった。 息をつく暇もないまま、次の仕事や平行するいくつかの仕事に追われ、やっと帰れそうだと時計の針を見上げると、七時十分を指していた。日が暮れるのが遅くなったとはいえ外はもう真っ暗だ。 「麻里、もう帰る?」 誰もいないと思っていた給湯室から佐和子が顔を出し、手招きをした。 「なんだ、佐和子もまだいたの?」 呼ばれるまま給湯室に入っていくと、はいと、目の前に黒地のシックな柄に赤いリボンをかけた包みを差し出された。 「え? もしかして私に?」 「もちろん。麻里によ」 「うわぁ、有難う。すごく嬉しい」 「どうしたしまして」 にこにこ笑っている佐和子を見ていると、仕事が終わった開放感もあり、色々な事が上手くいかなくて沈んでいた気持ちがほぐされていくようだ。 「私なにも用意してなくって、ごめんね。あの、もし時間あったら御飯でも食べて帰る? 今日はおごっちゃうよ」 冗談めかして誘いながらも、会話の流れ着く方向はなんとなく想像できた。佐和子の後ろに置いてあるもう一つの紙袋が話しをしながら目の端にとまったからだ。そうでなくてもバレンタインデーに友達を誘うのは無謀だったかなと後悔する。後悔しても遅いのはわかっていても。どうフォローすればいいのかわからないまま、気持ちだけは焦るのに、会話は次へと進んでどうにもならなくなる。 「今日は――」 困った顔をした佐和子の言葉を考えるより先に遮っていた。 「なーんてね。かっこよく誘いたいところだけど今日は忙しかったし、課長に怒られたりでばてちゃっててさ。そのかわりホワイトデーは期待しててね」 触れられたくないことに触れてしまったような気がして、慌てて話を変えようとしてよけいに不自然っぽくなってしまう。 「ただし三倍返しはなしね」 あとはもう、自分で笑って誤魔化すしかなくなってしまうのがいつものパターンだった。 佐和子を見ると、もう笑っていない。 「あのね、いっといた方がいいと思うの」 緊張した声で佐和子が言った。 「でもね、牽制とか言った方が勝ちとかそんなのじゃないから。ただ騙しているみたいになるのが嫌だからいっとく」 「うん、わかった。聞くよ」 背筋を伸ばし、佐和子の目を見る。 「あのね……寺田くんに、チョコを渡そうと思ってるの」 わざわざ佐和子が言うってことは、わたしのギリチョコとは意味が違うのたろう。まだ寺田が外回りから帰ってきてないことを思い出して頷く。 「うん。私も聞いて欲しいことがあるの」 佐和子の顔色が今にも倒れそうなほど白くなる。 「あー、違うの。そうじゃないの。私がチョコを渡したいのは征人なのよ」 「ゆきひと?」 きょとんとした顔で佐和子が聞く。 「実は元彼なんだ」 「えー、そうなの? だったら仕事なんてしてる場合じゃないわよ」 驚きから瞬時に回復した佐和子が身を乗り出す。目が輝いていた。 「でも、今更迷惑だと思って迷ってたんだ……」 「今頃なにいってるのよ。その人、結婚してるの?」 「まだだと思う」 「彼女がいるの?」 ずきんと胸が痛む。 「それは、わからないけど」 「だったら渡さないとぜったい後悔するよ。チョコは買ったんでしょ? 渡してないやつあるよね?」 今度は私が驚く番だった。 「なんで知ってるの!」 「ふふん。それくらい見てるって。だから寺田くんに渡すのかと思って悩んだんじゃないの」 「そうなの?」 「そうだよ。麻里って仕事は出来るのに、こういうのは苦手だよね」 「んー、かも?」 「かもじゃなくて、そう。だからね、考えたって無駄」 「無駄って、なにもそこまで」 「いいから、早く帰る支度して、それでふられてきな」 「ふられてって」 「うそ。上手くいく事を願ってる。だけどふられた方がいい女になるよ」 ぽんっと背中を叩き、気持ちを押すように机の前まで引っ張っていかれ、急かされるままに身支度を整える。 「佐和子、有難う」 「やれることはやってみなきゃ」 「だね」 「アイマスクを買っといてあげるから」 冗談っぽく佐和子がいう。 「私も、ね」 「あは、頼む」 「じゃあね」 「うん、気をつけてね」 小走りに会社を飛び出し、大通りでタクシーを捕まえる。征人の住んでるアパートは遠い。時間を稼ぐために少し離れた駅の名前を運転手に告げる。そこから快速に乗っておよそ一時間。乗り換えて二十分。歩いて十五分。考えるのは快速に乗ってからにしようと思う。そうしないと、途中で躊躇ってしまいそうだから。 タクシーの運転手に運賃を払い、駅で切符を買い、十分後にホームに滑り込んできた電車に乗り込む。混んでいたけど、なんとか吊革を持てる場所を確保する。 窓の外を明るい看板やネオンが川のように流れ出すと、必死で封印しようとしてきた征人との思い出までが溢れ出す。 大学四年間の思い出のほとんどのページに征人の姿があった。喧嘩もたくさんした。その同じ数に一回だけ満たない仲直りを繰り返しながら。誤解から生じた喧嘩もある。最後にはどちらかが折れた喧嘩も。お互いに頭を下げた喧嘩も。 ただ一回の最後の喧嘩を、まるで裏切られたような気がして、納得することが出来なくて、私は一人でここにいる。今になって考えれば、他に方法はいくらでもあったはずなのにと思う。 就職の内定も決まり、卒業を目前に控えたクリスマス。隠すところが思いつかなかったからと苦笑しながら、彼が冷蔵庫から出してきたブルーの紙袋。想像と違った高価なプラチナの指輪。結婚しない?……と、征人。 征人は内定の段階で、場所はまだわからないが配属先は地方になるだろうと打診されていた。就職すれば離れ離れになることはわかっていた。それでもその会社で仕事がしたいならと、私は反対しなかった。何年かしたら本社に戻ってこられるだろうと気楽に考えていたせいもある。 私も自分のしたい仕事をしたかったから。当然のように遠距離恋愛になるのかなあと考え、だったら早く一人前になりたいなと思っていた私にとって、征人の言葉はあまりにも自分勝手で、重い枷のように感じられた。 結婚するという事はつまり、今の会社への就職をやめて、征人の配属先について来てほしいという意味で、仕事なんかどこの会社でもいいじゃないか、どうせ腰掛なんだから――と、言われているようで、その時は征人と話し合うどころか、まともに顔を見ることも出来なくて別れた。 ちゃんと話し合えば、もっと違う道を見つけられたかもしれないのに。離れてもなお、思い出すのは征人のことばかりなのに。 征人がまだ大学生の時に住んでいたアパートに住んでいるらしいと伝え聞いたのは、大学の頃の友達からだった。 どうして? 何故? という疑問が先にたつ。なんらかの事情で配属先が変わったのか、就職先を変えたのか。誰に聞いてもそのあたりの事情はわからなかった。 アパートへの道は忘れていなかった。何度も何度も往復した道。閉店したり開店したお店、新しく建った家などがあるけど、雰囲気はそれほど変わっていない。 早く会いたくて走り出したいような、今すぐ駅に引き返したいような、二つの正反対の気持ちが渦巻いて、身体がばらばらになりそうだった。足元がふわふわして、どこを歩いているのかも見失いそうになり、不意に佐和子の言葉を思い出した。 (やれることはやってみなきゃ) 暗くても間違えようのないアパート。下からでも部屋に明かりが灯ってるのが見える。まるでそうするのが礼儀のように足音を忍ばせ、中から誰かの声はしないかと耳を傾むけ、部屋の前に立つ。名前を確認し、剥げかけた懐かしいドアをノックする。 訝しがるような間があり「はい」と征人の声が答える。 私の膝はがくがくと震えだし、逃げ出すどころか立っていることさえおぼつかない。もし一人じゃなかったら? 開いた扉の隙間からちらりと、三和土にそろえられたハイヒールが見えたら? 一歩後ろに下がり、錆びた手すりを掴み、首を左右に強く振る。 「どちらさま?」 (ふられた方がいい女になるよ) ――いい女に、なるからね。 大きく息を吸い込み、吐き出す。もう一度息を吸い、 「夜分にすみません。片倉麻里です」 ***END
by e--mi
| 2009-02-14 17:15
| kaku<eggshell>
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